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スタジオ・ジブリの「かぐや姫の物語」を今更ながら地上波で見たのですが、非常に仏教的な死の要素を強く感じたので感想と考えを書いてみることにします。

ストーリーはまんまかぐや姫・竹取物語なのでネタバレもクソもないと思いますが、とりあえず初見で映画を楽しみたい人は読まないほうがいいかもしれないです。(画像引用:『かぐや姫の物語』(C)2013畑事務所・GNDHDDTK)

スタジオ・ジブリの「かぐや姫の物語」

最初に押さえておくべきことは、ジブリの「かぐや姫の物語」を楽しむということは「竹取物語」を楽しむことだと思いました。

「竹取物語」をジブリがまっすぐに描いたもの

ジブリの「かぐや姫の物語」はどういうものかというと、ほぼ「竹取物語」そのものと言っていいです。かぐや姫をベースにジブリが違う角度から映像作品に仕上げていると期待している人はちょっと面食らうかもしれないし、実際にそういう評価も散見できます。

ここで大事なのは日本人は誰もがかぐや姫のストーリーを知っているけど、日本最古の物語として竹取物語が何を描いているのかということまでは考えてはいないということだと思います。スタジオジブリが描く真実ほんとうのかぐや姫。と銘打ってるだけあって「かぐや姫の物語」は竹取物語の奥にある様々な要素に正面から向き合っていて、僕はまんまと竹取物語の奥深さに引き寄せられてしまいました。

竹取物語は謎が多い日本最古の物語

竹取物語は実は日本最古の物語で謎も多いのです。まず作者は不詳で、時代も他の文献からの引用や登場人物などから推察するに10世紀頃と言われているがそれも謎。今回は全く別の話なので割愛しますが、反藤原的な内容もあると言われていて、読み書きができる上流階級層などから紀貫之や菅原道真など諸説ありますが、とにかく書いてる人は謎に包まれています。

最大のテーマはかぐや姫の「罪と罰」

原作の『竹取物語』で、かぐや姫は、月に帰らなければならなくなったことを翁に打ち明けたとき、「私は“昔の契り”によって、この地にやってきたのです」と語ります。そして迎えに来た月の使者は、「かぐや姫は、罪を犯されたので、この地に下ろし、お前のような賤しいもののところに、しばらくの間おいてやったのだ。その罪の償いの期限が終わったので、こうして迎えにきた」と翁に言います。
いったい、かぐや姫が月で犯した罪とはどんな罪で、“昔の契り”、すなわち「月世界での約束事」とは、いかなるものだったのか。そしてこの地に下ろされたのがその罰ならば、それがなぜ解けたのか。なぜそれをかぐや姫は喜ばないのか。そもそも清浄無垢なはずの月世界で、いかなる罪がありうるのか。要するに、かぐや姫はいったいなぜ、何のためにこの地上にやって来たのか。
これらの謎が解ければ、原作を読むかぎりでは不可解としか思えないかぐや姫の心の変化が一挙に納得できるものとなる。そしてその糸口はつかめた! とそのとき私の心は躍ったのですが、半世紀を経て今回取り上げるまで、この“昔の契り”コンセプトは、長年埃をかぶったままでした。

高畑勲監督も言及している通り、竹取物語最大の謎は「罪と罰」で本作品もそこが最大の見所です。逆に言えば、竹取物語の作者が投げかけた最大の謎に対する高畑勲監督の答えとも言えます。

「かぐや姫の仏教と死の物語」

かぐや姫の物語から仏教、とりわけ浄土信仰=阿弥陀信仰における「死」を感じさせる部分を自分なりに書いてみます。

かぐや姫は復活再生を象徴する「竹」から生まれる

ストーリーラインは竹取物語と一緒で、幼少期のかぐや姫はぐんぐん成長していきます。これは竹の成長スピードが凄まじい事から来ていて、村の子供達と遊んでいくうちにぐんぐん成長して追い抜いて行きます。

仏教的というよりかは神道的なものかもしれませんが、竹はさかきと並ぶ神聖な植物です。僕は月の住人であるかぐや姫が他でもない竹から生まれるのはなんか意味があるんだろうなと思って調べてみたところ、土葬時代は「息つき竹」というのがあって埋葬した後に生き返った時のために息が出来るように竹を立てていたようです。(ジャパニーズニンジャが水中でやってるアレ)

死者が蘇ったときの息継ぎ説以外にも息つき竹については様々な解釈があって、実際に棺までぶっさすことはしないから生き返っても呼吸はできないよねということで、死者に語りかけるための通路であったり、霊魂が通るための通路であったりと様々な説があるようです。いずれにしても神聖な植物である「竹」が葬儀など死の場面で「復活再生を願う習俗」として定着していることは注目しておくべきだと思います。

子供達のわらべ唄と天女の唄

序盤の重要なシーンとして、子供達が歌ったわらべ唄をかぐや姫が知っていたという重要なシーンがあります。

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい
まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる
せんぐり いのちが よみがえる

これは文面通り輪廻転生を表しています。一日の移ろい、季節の移ろい、最後には命が蘇るとあります。

そして、月の都で歌われている天女の歌も似た歌があります。

まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ
めぐって 心を 呼びかえせ
めぐって 心を 呼びかえせ
鳥 虫 けもの 草 木 花
人の情けを はぐくみて
まつとしきかば 今かへりこむ

まつとしきかば 今かへりこむは百人一首の中納言行平の一句としても有名です。「あなたが待っていると聞いたなら、今すぐにでも帰って行きましょう」という意味で、作中でもかぐや姫が天女の歌を思い出したシーンで言及されています。

作中で語られている限り、かぐや姫がこれを知ったのは地上世界から帰ってきた月の都の住人が口ずさんでいるのを聞いたからです。月の羽衣(天の羽衣)を身にまとい、穢れた地での記憶を失い、悲しみや悩みもないはずのその人が、歌うたびに涙がこぼれている、その不思議さにかぐや姫は穢れに憧れ、それを求めてしまったのです。

月の都は阿弥陀如来の極楽浄土

もう結論から言うと、月は死者の国であり、仏教・浄土信仰における極楽浄土です。先の歌でもある通り、命を象徴するのは「お日さん」であり、月は夜を意味し「死」を象徴しています。作中でも実際にかぐや姫を迎えに来たのは、すげえパンチパーマの効いたそっくりさんでもない限り、阿弥陀如来その人です。

地上世界は煩悩から抜けられない穢土

そして地上は穢れのある土地、すなわち「この世」です。作中でも月の使いは地上世界を「穢れた」と形容しています。舞台となる地球と月という2つの惑星は、そのままこの世とあの世、浄土信仰における穢土と浄土を表しているのです。

三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し (『往生論註』)

浄土信仰におけるまさしく真実が分からず煩悩にとらわれ、輪廻から抜け出せない世界のことを穢土としています。

かぐや姫の罪とは穢れを望んでしまったこと

輪廻転生という考え方は実は仏教においては「苦」です。極楽浄土に行くためには輪廻から解脱しなければなりません。月の都の住人が心(悩みや悲しみ)を持たないのは、解脱して心身から解き放たれているからです。そして、かぐや姫は月の都の住人が天女の歌を歌いながら涙を流すのを見て穢れた地に行ってみたいと思ってしまいました。かぐや姫に与えられた罰とは、物理的には地上であるが、その本質はほかならぬ輪廻に戻されてしまうことです。

そして、「月の羽衣」が解脱を表す視覚的な要素として用いられています。天皇が即位する大嘗祭においても、「天」の羽衣を身にまとい沐浴する儀礼があり、まさに羽衣は「人ではない何か」へと変わる象徴的なモノと言えます。

都に移ったかぐや姫は「高貴なる姫君」になるよう教育を施されるが、これに強く反発します。眉を抜いたら汗が目に入る、お歯黒を塗ったら笑えないというかぐや姫の主張に対し、教育担当の相模はいずれも高貴なる姫君ははしたなく動かないし、人前で笑うようなことはしないと反論 します。かぐや姫は「高貴なる姫君は人ではない」と、強烈な反発を見せました。

かぐや姫は極楽浄土の住人であるが、穢れのある世界を望んでこの地に落とされています。「高貴なる姫君」への反発は穢れ、すなわち「人」であることへの強い欲求だと思います。そして実は都に来た際、かぐや姫は翁に用意された「羽衣」を身につけているのです。都は「人」ではなくなる場所だったのです。

翁とのすれ違い 里山と都が表す地上と月の世界

竹取の翁・嫗の夫妻とかぐや姫の間には実の親子以上の愛情があるように描かれています。翁はかぐや姫の幸せを真に願い、都へ連れて行ってしまうのですが、翁の愛がかぐや姫を苦しめることになります。かぐや姫は都に来た時大喜びするのだが、彩り鮮やかな着物は「虹みたい」と散らかし、立派な建築の家を野山を走るように駆け回るように、あくまでも生まれ育った野山の延長として楽しんでいます。都での生活が進むにつれ、「偽物の幸せ」にかぐや姫は苦しんでいきます。

ここで面白いのは物語終盤までは登場しない月世界の概念、地上世界と月世界の対比を、「里山」と「都」で表現しているところでしょう。都は穢れのない高貴な人を目指す場所であり、かぐや姫が真に求めているのは穢れ(人間らしさ)に満ちた里山での生活でした。

しかし、かぐや姫は翁の愛に応えるため、「偽物の幸せ」に絶望するまで逆らうことはありませんでした。捨丸達と次の日雉鍋をする約束をしたが、都へ行くという翁に反発はしなかったし、どんなにはしゃいでも翁の前では高貴な振る舞いを見せています。この辺りは翁が父性を象徴して描かれていると感じます。逆に嫗はかぐや姫の全てを受け止める度量のある母性の象徴です。これは単純な父権制への批判ではないことは映画を見れば分かると思います。何と言えばいいのか、よくある家庭の悲劇のような。

そのすれ違いが5人の貴公子、そして帝からの求婚につながり、月への帰還につながっていきます。

かぐや姫は穢れを嫌い、帰りたいと思ってしまった

竹取物語と違う部分は、かぐや姫が月への帰還を望まない限りはずっと地上にいられたかのような描写がある点です。ネットで物議を醸し出した鋭利なアゴを持つ帝に抱きしめられた際、かぐや姫が実体を無くして消えてしまう場面がありますが、作中ではかぐや姫の成長スピードや髪上げの儀で物凄いスピードで疾走したこと(これはかぐや姫の夢だが)に並んで数少ない非人間的な振る舞いです。細かい演出ですがかぐや姫が透明になる瞬間に照明が消えたような表現がされており、まさしく月の世界の住人としてのかぐや姫が描かれています。

かぐや姫の髪上げの儀の際の夢では、非人間的な速さで里山へ帰りますが、そこでは山は冬を迎えています。山が死んだと思っていたかぐや姫が春の準備をしているだけと知り、まさしく「流転の相」に気付き、そこで夢から目が覚めるのですが、あそこで絶望していたら月からの迎えはあの時に来ていたのではないかと思うのです。

身分の差に囚われた捨丸の過ち

月からの迎えが来ることが分かった後、嫗はかぐや姫を故郷の山に行かせます。本作のオリジナルキャラクターの捨丸と再会します。かぐや姫は捨丸とならきっと幸せになれたと言い、捨丸も「逃げよう」とかぐや姫に語りかけます。感情の高まりで二人は空を飛びだすジブリらしい演出が入るのですが、最後には何かに引き寄せられたかぐや姫を抱きしめるも、二人は引き剥がされ、かぐや姫は海へと落ちてしまいます。

そこで捨丸が夢から目覚めるという流れになるのですが、捨丸には実は妻子がおり、妻子を残して全てを捨ててかぐや姫と逃げるという決断だったのです。二人は許されない愛でした。

捨丸とかぐや姫は以前にも一度再会する場面があります。都に来て荒みはじめたかぐや姫が、偶然物盗りをしていた捨丸と再会し、「捨丸兄ちゃん」と感情を露わに呼んだかぐや姫に対し、捨丸は一言も返すことができず、ただただ非常に長い間を持って呆然とし、結果的には捕まってボコボコにされてしまいます。

この時、捨丸が言いたかったことが2度目の再会の時に言ったことなのだと思います。身分が違うからとか、どうせ山の暮らしは無理だとか、恐らく翁と同様に捨丸も女としての幸せを考えたら都に行くほうがいいと考えたのでしょう。そういう意味では、捨丸もまた翁と同じ過ちを犯してしまったということです。あのタイミングで二人で逃げていれば、かぐや姫と捨丸は結ばれ、かぐや姫も月へ帰らなくて済んだのかもしれません。

僕は捨丸の夢オチにするのであれば、なぜかぐや姫が帰る月の方角ではなく、海へ落ちるような表現にしたのかをずっと考えていました。仏教には「一味」という考えがあって、大海の味がどこでも同じ塩味がするように、人間は本質的には平等であるという考えがあります。かぐや姫が海へ落ちたのは、身分の差に縛られた捨丸の過ちを象徴しているんじゃないかと思います。

8月15日の満月の夜に月へと帰るかぐや姫

作中ではかぐや姫が月へと帰る日がはっきりと示されており、8月15日の満月の夜で、お盆です。仏となった先祖を迎えて供養し、また送り返す行事ですが、かぐや姫においても極楽浄土である月世界へ帰るのは8月15日です。

月の使者一行は、阿弥陀如来ご一行。阿弥陀来迎図を元に描かれているようで、やはり月=浄土という浄土信仰にたつものであることがわかります。

高畑監督の企画書

私にはいまも、月での父王とかぐや姫のシーンがありありと見えています。父王は姫の罪と罰について重大なことを語り聞かせています。かぐや姫はうわの空で、父王の言葉も耳に入らず、目を輝かせながら、これから下ろされる地球に見入るばかりです……。

高畑監督の企画書段階では、かぐや姫は月の都の王である阿弥陀如来の娘として描かれていたようです。これで作中だけではよく分からなかった、罰として降ろされたかぐや姫に対して財宝や着物が送られた理由がなんとなく分かる気がします。人間のより醜い部分に触れさせようとした父親の意図があったのだと思います。あるいは単に親心か。(仏なのでそんなものにはとらわれてないでしょうが)

企画書段階ではさらにかぐや姫が接触した月の都の住人は羽衣伝説で地球から帰還した女で、かぐや姫は彼女の記憶を呼び覚まし、地上の思い出によって女を苦しめた罪を問われたというのがあったようです。この部分は本編に採用されることはありませんでしたが、女の口から出る人間の否定的な穢れた部分にかぐや姫は逆に心惹かれてしまったという事は本編にもつながっています。

まとめ

かぐや姫の物語は仏教的な「死」がひとつの重要なテーマになっている

色々な切り口のある映画だと思いますが、ひとつ仏教的な「死」という切り口で見るととても面白い作品であることが分かります。逆に言うと、ベースとして仏教の死生観がないので、現代人は竹取物語の死の側面が見えづらいのだと思います。

高畑監督はかぐや姫の「罪と罰」という最大の謎を考えた末、この死生観に辿り着いたのかなと思います。清浄なはずの月世界の罪、月の世界の住人が語る穢れ、月へ帰りたくないと言ったかぐや姫の真意。

当時の死生観を強く表している

成立時代が定かではない竹取物語ですが、おおよそ10世紀くらいだと推測されています。現代人が竹取物語を見て仏教的なエッセンスにいまいちピンと来ないのは、当時は浄土教が広く普及していて、浄土信仰が人々の死生観に強く影響を与えていたからだと思います。

そして、浄土信仰の死生観から竹取物語を見た時に、まさしく今回のジブリの「かぐや姫の物語」のような悲しいストーリーが浮かび上がってきます。かぐや姫の罪と罰、穢土と浄土、生と死。

実は「生きること」を考えた作品なんじゃないかなと。

最後の別れで穢れこそ彩りに満ちた素晴らしい世界であることを語るかぐや姫に対し、言葉途中でかぐや姫に羽衣を着せ、かぐや姫が人の心を失うシーンがあります。見方によってはひどく横暴で僕も最初見た時は仏教批判的な要素もあるのかなと思いました。

かぐや姫の物語が描いてるのはあくまでも浄土信仰に基づいた当時の死生観です。現世での輪廻は苦。解脱して何の悩みもない極楽浄土へ行くことが人々の救いでした。

かぐや姫のラストシーンを見てどこか悲しい思いになったのは、今の死生観がかぐや姫のように「人間らしく生きること」に変わっていることが浮かび上がってきたことと同じなんじゃないかなと思います。映画の評価は様々ですが、「竹取物語」から現代の生きるテーマを描いた本作は、新しい葬儀や生き方など死生観がめまぐるしく揺れている今こそ見るべき作品なのではないでしょうか。

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スタジオ・ジブリの「かぐや姫の物語」を今更ながら地上波で見たのですが、非常に仏教的な死の要素を強く感じたので感想と考えを書いてみることにします。 ストーリーはまんまかぐや姫・竹取物語なのでネタバレもクソもないと思いますが、とりあえず初見で映画を楽しみたい人は読まないほうがいいかもしれないです。(画像引用:『かぐや姫の物語』(C)2013畑事務所・GNDHDDTK) スタジオ・ジブリの「かぐや姫の物語」 最初に押さえておくべきことは、ジブリの「かぐや姫の物語」を楽しむということは「竹取物語」を楽しむことだと思いました。 「竹取物語」をジブリがまっすぐに描いたもの ジブリの「かぐや姫の物語」はどういうものかというと、ほぼ「竹取物語」そのものと言っていいです。かぐや姫をベースにジブリが違う角度から映像作品に仕上げていると期待している人はちょっと面食らうかもしれないし、実際にそういう評価も散見できます。 ここで大事なのは日本人は誰もがかぐや姫のストーリーを知っているけど、日本最古の物語として竹取物語が何を描いているのかということまでは考えてはいないということだと思います。スタジオジブリが描く真実ほんとうのかぐや姫。と銘打ってるだけあって「かぐや姫の物語」は竹取物語の奥にある様々な要素に正面から向き合っていて、僕はまんまと竹取物語の奥深さに引き寄せられてしまいました。 竹取物語は謎が多い日本最古の物語 竹取物語は実は日本最古の物語で謎も多いのです。まず作者は不詳で、時代も他の文献からの引用や登場人物などから推察するに10世紀頃と言われているがそれも謎。今回は全く別の話なので割愛しますが、反藤原的な内容もあると言われていて、読み書きができる上流階級層などから紀貫之や菅原道真など諸説ありますが、とにかく書いてる人は謎に包まれています。 最大のテーマはかぐや姫の「罪と罰」 原作の『竹取物語』で、かぐや姫は、月に帰らなければならなくなったことを翁に打ち明けたとき、「私は“昔の契り”によって、この地にやってきたのです」と語ります。そして迎えに来た月の使者は、「かぐや姫は、罪を犯されたので、この地に下ろし、お前のような賤しいもののところに、しばらくの間おいてやったのだ。その罪の償いの期限が終わったので、こうして迎えにきた」と翁に言います。 いったい、かぐや姫が月で犯した罪とはどんな罪で、“昔の契り”、すなわち「月世界での約束事」とは、いかなるものだったのか。そしてこの地に下ろされたのがその罰ならば、それがなぜ解けたのか。なぜそれをかぐや姫は喜ばないのか。そもそも清浄無垢なはずの月世界で、いかなる罪がありうるのか。要するに、かぐや姫はいったいなぜ、何のためにこの地上にやって来たのか。 これらの謎が解ければ、原作を読むかぎりでは不可解としか思えないかぐや姫の心の変化が一挙に納得できるものとなる。そしてその糸口はつかめた! とそのとき私の心は躍ったのですが、半世紀を経て今回取り上げるまで、この“昔の契り”コンセプトは、長年埃をかぶったままでした。 高畑勲監督も言及している通り、竹取物語最大の謎は「罪と罰」で本作品もそこが最大の見所です。逆に言えば、竹取物語の作者が投げかけた最大の謎に対する高畑勲監督の答えとも言えます。 「かぐや姫の仏教と死の物語」 かぐや姫の物語から仏教、とりわけ浄土信仰=阿弥陀信仰における「死」を感じさせる部分を自分なりに書いてみます。 かぐや姫は復活再生を象徴する「竹」から生まれる ストーリーラインは竹取物語と一緒で、幼少期のかぐや姫はぐんぐん成長していきます。これは竹の成長スピードが凄まじい事から来ていて、村の子供達と遊んでいくうちにぐんぐん成長して追い抜いて行きます。 仏教的というよりかは神道的なものかもしれませんが、竹は榊さかきと並ぶ神聖な植物です。僕は月の住人であるかぐや姫が他でもない竹から生まれるのはなんか意味があるんだろうなと思って調べてみたところ、土葬時代は「息つき竹」というのがあって埋葬した後に生き返った時のために息が出来るように竹を立てていたようです。(ジャパニーズニンジャが水中でやってるアレ) 死者が蘇ったときの息継ぎ説以外にも息つき竹については様々な解釈があって、実際に棺までぶっさすことはしないから生き返っても呼吸はできないよねということで、死者に語りかけるための通路であったり、霊魂が通るための通路であったりと様々な説があるようです。いずれにしても神聖な植物である「竹」が葬儀など死の場面で「復活再生を願う習俗」として定着していることは注目しておくべきだと思います。 子供達のわらべ唄と天女の唄 序盤の重要なシーンとして、子供達が歌ったわらべ唄をかぐや姫が知っていたという重要なシーンがあります。 まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ まわって お日さん 呼んでこい まわって お日さん 呼んでこい 鳥 虫 けもの 草 木 花 春 夏 秋 冬 連れてこい 春 夏 秋 冬 連れてこい まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ まわって お日さん 呼んでこい まわって お日さん 呼んでこい 鳥 虫 けもの 草 木 花 咲いて 実って 散ったとて 生まれて 育って 死んだとて 風が吹き 雨が降り 水車まわり せんぐり いのちが よみがえる せんぐり いのちが よみがえる これは文面通り輪廻転生を表しています。一日の移ろい、季節の移ろい、最後には命が蘇るとあります。 そして、月の都で歌われている天女の歌も似た歌があります。 まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ めぐって 心を 呼びかえせ めぐって 心を 呼びかえせ 鳥 虫 けもの 草 木 花 人の情けを はぐくみて まつとしきかば 今かへりこむ まつとしきかば 今かへりこむは百人一首の中納言行平の一句としても有名です。「あなたが待っていると聞いたなら、今すぐにでも帰って行きましょう」という意味で、作中でもかぐや姫が天女の歌を思い出したシーンで言及されています。 作中で語られている限り、かぐや姫がこれを知ったのは地上世界から帰ってきた月の都の住人が口ずさんでいるのを聞いたからです。月の羽衣(天の羽衣)を身にまとい、穢れた地での記憶を失い、悲しみや悩みもないはずのその人が、歌うたびに涙がこぼれている、その不思議さにかぐや姫は穢れに憧れ、それを求めてしまったのです。 月の都は阿弥陀如来の極楽浄土 もう結論から言うと、月は死者の国であり、仏教・浄土信仰における極楽浄土です。先の歌でもある通り、命を象徴するのは「お日さん」であり、月は夜を意味し「死」を象徴しています。作中でも実際にかぐや姫を迎えに来たのは、すげえパンチパーマの効いたそっくりさんでもない限り、阿弥陀如来その人です。 地上世界は煩悩から抜けられない穢土 そして地上は穢れのある土地、すなわち「この世」です。作中でも月の使いは地上世界を「穢れた」と形容しています。舞台となる地球と月という2つの惑星は、そのままこの世とあの世、浄土信仰における穢土と浄土を表しているのです。 三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し (『往生論註』) 浄土信仰におけるまさしく真実が分からず煩悩にとらわれ、輪廻から抜け出せない世界のことを穢土としています。 かぐや姫の罪とは穢れを望んでしまったこと 輪廻転生という考え方は実は仏教においては「苦」です。極楽浄土に行くためには輪廻から解脱しなければなりません。月の都の住人が心(悩みや悲しみ)を持たないのは、解脱して心身から解き放たれているからです。そして、かぐや姫は月の都の住人が天女の歌を歌いながら涙を流すのを見て穢れた地に行ってみたいと思ってしまいました。かぐや姫に与えられた罰とは、物理的には地上であるが、その本質はほかならぬ輪廻に戻されてしまうことです。 そして、「月の羽衣」が解脱を表す視覚的な要素として用いられています。天皇が即位する大嘗祭においても、「天」の羽衣を身にまとい沐浴する儀礼があり、まさに羽衣は「人ではない何か」へと変わる象徴的なモノと言えます。 都に移ったかぐや姫は「高貴なる姫君」になるよう教育を施されるが、これに強く反発します。眉を抜いたら汗が目に入る、お歯黒を塗ったら笑えないというかぐや姫の主張に対し、教育担当の相模はいずれも高貴なる姫君ははしたなく動かないし、人前で笑うようなことはしないと反論 します。かぐや姫は「高貴なる姫君は人ではない」と、強烈な反発を見せました。 かぐや姫は極楽浄土の住人であるが、穢れのある世界を望んでこの地に落とされています。「高貴なる姫君」への反発は穢れ、すなわち「人」であることへの強い欲求だと思います。そして実は都に来た際、かぐや姫は翁に用意された「羽衣」を身につけているのです。都は「人」ではなくなる場所だったのです。 翁とのすれ違い 里山と都が表す地上と月の世界 竹取の翁・嫗の夫妻とかぐや姫の間には実の親子以上の愛情があるように描かれています。翁はかぐや姫の幸せを真に願い、都へ連れて行ってしまうのですが、翁の愛がかぐや姫を苦しめることになります。かぐや姫は都に来た時大喜びするのだが、彩り鮮やかな着物は「虹みたい」と散らかし、立派な建築の家を野山を走るように駆け回るように、あくまでも生まれ育った野山の延長として楽しんでいます。都での生活が進むにつれ、「偽物の幸せ」にかぐや姫は苦しんでいきます。 ここで面白いのは物語終盤までは登場しない月世界の概念、地上世界と月世界の対比を、「里山」と「都」で表現しているところでしょう。都は穢れのない高貴な人を目指す場所であり、かぐや姫が真に求めているのは穢れ(人間らしさ)に満ちた里山での生活でした。 しかし、かぐや姫は翁の愛に応えるため、「偽物の幸せ」に絶望するまで逆らうことはありませんでした。捨丸達と次の日雉鍋をする約束をしたが、都へ行くという翁に反発はしなかったし、どんなにはしゃいでも翁の前では高貴な振る舞いを見せています。この辺りは翁が父性を象徴して描かれていると感じます。逆に嫗はかぐや姫の全てを受け止める度量のある母性の象徴です。これは単純な父権制への批判ではないことは映画を見れば分かると思います。何と言えばいいのか、よくある家庭の悲劇のような。 そのすれ違いが5人の貴公子、そして帝からの求婚につながり、月への帰還につながっていきます。 かぐや姫は穢れを嫌い、帰りたいと思ってしまった 竹取物語と違う部分は、かぐや姫が月への帰還を望まない限りはずっと地上にいられたかのような描写がある点です。ネットで物議を醸し出した鋭利なアゴを持つ帝に抱きしめられた際、かぐや姫が実体を無くして消えてしまう場面がありますが、作中ではかぐや姫の成長スピードや髪上げの儀で物凄いスピードで疾走したこと(これはかぐや姫の夢だが)に並んで数少ない非人間的な振る舞いです。細かい演出ですがかぐや姫が透明になる瞬間に照明が消えたような表現がされており、まさしく月の世界の住人としてのかぐや姫が描かれています。 かぐや姫の髪上げの儀の際の夢では、非人間的な速さで里山へ帰りますが、そこでは山は冬を迎えています。山が死んだと思っていたかぐや姫が春の準備をしているだけと知り、まさしく「流転の相」に気付き、そこで夢から目が覚めるのですが、あそこで絶望していたら月からの迎えはあの時に来ていたのではないかと思うのです。 身分の差に囚われた捨丸の過ち 月からの迎えが来ることが分かった後、嫗はかぐや姫を故郷の山に行かせます。本作のオリジナルキャラクターの捨丸と再会します。かぐや姫は捨丸とならきっと幸せになれたと言い、捨丸も「逃げよう」とかぐや姫に語りかけます。感情の高まりで二人は空を飛びだすジブリらしい演出が入るのですが、最後には何かに引き寄せられたかぐや姫を抱きしめるも、二人は引き剥がされ、かぐや姫は海へと落ちてしまいます。 そこで捨丸が夢から目覚めるという流れになるのですが、捨丸には実は妻子がおり、妻子を残して全てを捨ててかぐや姫と逃げるという決断だったのです。二人は許されない愛でした。 捨丸とかぐや姫は以前にも一度再会する場面があります。都に来て荒みはじめたかぐや姫が、偶然物盗りをしていた捨丸と再会し、「捨丸兄ちゃん」と感情を露わに呼んだかぐや姫に対し、捨丸は一言も返すことができず、ただただ非常に長い間を持って呆然とし、結果的には捕まってボコボコにされてしまいます。 この時、捨丸が言いたかったことが2度目の再会の時に言ったことなのだと思います。身分が違うからとか、どうせ山の暮らしは無理だとか、恐らく翁と同様に捨丸も女としての幸せを考えたら都に行くほうがいいと考えたのでしょう。そういう意味では、捨丸もまた翁と同じ過ちを犯してしまったということです。あのタイミングで二人で逃げていれば、かぐや姫と捨丸は結ばれ、かぐや姫も月へ帰らなくて済んだのかもしれません。 僕は捨丸の夢オチにするのであれば、なぜかぐや姫が帰る月の方角ではなく、海へ落ちるような表現にしたのかをずっと考えていました。仏教には「一味」という考えがあって、大海の味がどこでも同じ塩味がするように、人間は本質的には平等であるという考えがあります。かぐや姫が海へ落ちたのは、身分の差に縛られた捨丸の過ちを象徴しているんじゃないかと思います。 8月15日の満月の夜に月へと帰るかぐや姫 作中ではかぐや姫が月へと帰る日がはっきりと示されており、8月15日の満月の夜で、お盆です。仏となった先祖を迎えて供養し、また送り返す行事ですが、かぐや姫においても極楽浄土である月世界へ帰るのは8月15日です。 月の使者一行は、阿弥陀如来ご一行。阿弥陀来迎図を元に描かれているようで、やはり月=浄土という浄土信仰にたつものであることがわかります。 高畑監督の企画書 私にはいまも、月での父王とかぐや姫のシーンがありありと見えています。父王は姫の罪と罰について重大なことを語り聞かせています。かぐや姫はうわの空で、父王の言葉も耳に入らず、目を輝かせながら、これから下ろされる地球に見入るばかりです......。 高畑監督の企画書段階では、かぐや姫は月の都の王である阿弥陀如来の娘として描かれていたようです。これで作中だけではよく分からなかった、罰として降ろされたかぐや姫に対して財宝や着物が送られた理由がなんとなく分かる気がします。人間のより醜い部分に触れさせようとした父親の意図があったのだと思います。あるいは単に親心か。(仏なのでそんなものにはとらわれてないでしょうが) 企画書段階ではさらにかぐや姫が接触した月の都の住人は羽衣伝説で地球から帰還した女で、かぐや姫は彼女の記憶を呼び覚まし、地上の思い出によって女を苦しめた罪を問われたというのがあったようです。この部分は本編に採用されることはありませんでしたが、女の口から出る人間の否定的な穢れた部分にかぐや姫は逆に心惹かれてしまったという事は本編にもつながっています。 まとめ かぐや姫の物語は仏教的な「死」がひとつの重要なテーマになっている 色々な切り口のある映画だと思いますが、ひとつ仏教的な「死」という切り口で見るととても面白い作品であることが分かります。逆に言うと、ベースとして仏教の死生観がないので、現代人は竹取物語の死の側面が見えづらいのだと思います。 高畑監督はかぐや姫の「罪と罰」という最大の謎を考えた末、この死生観に辿り着いたのかなと思います。清浄なはずの月世界の罪、月の世界の住人が語る穢れ、月へ帰りたくないと言ったかぐや姫の真意。 当時の死生観を強く表している 成立時代が定かではない竹取物語ですが、おおよそ10世紀くらいだと推測されています。現代人が竹取物語を見て仏教的なエッセンスにいまいちピンと来ないのは、当時は浄土教が広く普及していて、浄土信仰が人々の死生観に強く影響を与えていたからだと思います。 そして、浄土信仰の死生観から竹取物語を見た時に、まさしく今回のジブリの「かぐや姫の物語」のような悲しいストーリーが浮かび上がってきます。かぐや姫の罪と罰、穢土と浄土、生と死。 実は「生きること」を考えた作品なんじゃないかなと。 最後の別れで穢れこそ彩りに満ちた素晴らしい世界であることを語るかぐや姫に対し、言葉途中でかぐや姫に羽衣を着せ、かぐや姫が人の心を失うシーンがあります。見方によってはひどく横暴で僕も最初見た時は仏教批判的な要素もあるのかなと思いました。 かぐや姫の物語が描いてるのはあくまでも浄土信仰に基づいた当時の死生観です。現世での輪廻は苦。解脱して何の悩みもない極楽浄土へ行くことが人々の救いでした。 かぐや姫のラストシーンを見てどこか悲しい思いになったのは、今の死生観がかぐや姫のように「人間らしく生きること」に変わっていることが浮かび上がってきたことと同じなんじゃないかなと思います。映画の評価は様々ですが、「竹取物語」から現代の生きるテーマを描いた本作は、新しい葬儀や生き方など死生観がめまぐるしく揺れている今こそ見るべき作品なのではないでしょうか。