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五千円札に描かれている女の人って誰だかご存じですか?代表作「たけくらべ」で有名な「樋口一葉」という女流作家です。借金で大変苦労し、24歳の若さにして亡くなったことで知られる樋口一葉ですが、その葬儀はどのようなものだったのでしょうか。

小説「たけくらべ」に描かれる「火葬」と日記から見る明治の「拾骨」文化

四季絶間たえまなき日暮里の火の光りもれが人を焼くけぶりかとうら悲しく

引用:『たけくらべ』 樋口一葉

樋口一葉の代表作『たけくらべ』に日暮里の火葬場の様子が書かれている一節です。東京など都市部では火葬が始まっており、この日暮里の火葬場は樋口一葉が「四季絶間なき」と表現するように東京で最も火葬件数の多いもので、現在の大規模な町屋斎場の前身です。

町屋火葬場は江戸五三昧の歴史を伝える。江戸五三昧とは、千駄木・桐ヶ谷・渋谷・炮縁新田・小塚原にあった火葬場をいう。小塚原の火葬場は寛文九年(1669)に下谷・浅草あたりの各寺院から移されたもので、火葬寺・火屋などともよばれた。明治二十年、周辺の市街化により廃止、二年後に町屋に移転した。一方、火葬場の増設許可が下り、同二十年、東京博善社が日暮里火葬場を新設。その後、同火葬場は町屋火葬場の隣地に移ることになり、同三十七年の移転とともに、町屋火葬場と合併した。

出典:あらかわの史跡・文化財荒川区教育委員会

樋口一葉にとっては、この火葬場は父・則義が荼毘に附された特別な場所でもありました。長兄を既に亡くした樋口家は、樋口一葉が家督を継いでいました。父の死によって、ここから有名な貧乏暮らしが始まります。

一葉の死の二年前、二十七年七月一日、従兄の樋口幸作が病死し、やはり日暮里火葬場で荼毘に附された。一葉はそのことを日記にこう書き残している。
「からはその日寺に送りて日ぐらしの烟とたちのぼらせぬ。あさましき終をちかき人にみる我身の宿世もそぞろにかなし」
翌日の二日、一葉は「早朝母君およびおくら(幸作の妹=引用者註)と共に日ぐらしに骨ひろひにゆく」。平出鏗二郎著『東京風俗志』に「火葬にしたるは、翌朝、親戚の婦女往きて遺骨を拾集して帰る、これを骨上げ、または灰よせといふ」とあり、女性による骨上げが当時の慣習だったようだ。

『明治人のお葬式』

樋口一葉の日記や当時の記録から見るに、当時は火葬は一晩かけて行っていたことや、現在も行われている拾骨は火葬の翌日に親類の女性達で行われていたことがわかります。
火葬解禁以降、明治時代に都市部で火葬が広まっていった背景には、人口増加、衛生士層の普及、墓地の狭さなどの問題の他に、次のような時代背景が指摘されています。

人の移動が頻繁になり、故郷を出て東京などの大都市で生活を立てる機会が多くなったのも、明治中期以降の著しい現象であるが、いっぽうでは、死んだら郷里の墓に埋めてもらいたいという念願だけは根強かったために、遺族が遺骨を抱いて帰る必要から、いきおい火葬にせざるをえなかった

浅香勝輔・八木沢壮一共著『火葬場』

都市部への人の移動という社会構造の変化によって、火葬がより合理的な葬送の方式として都市部を中心に徐々に広まっていった事がわかります。

樋口一葉の貧乏生活

「昨日より家のうちに金といふもの一銭もなし」 樋口一葉『よもぎふ日記』

父の死後、樋口家の多額の借金を一葉が返すことになります。小説を書くきっかけも借金が原因でした。

一葉は明治26年7月に、たけくらべの舞台となった下谷・竜泉寺町に移り住み、荒物屋(=家庭用の雑貨類を売る雑貨屋)を開くものの、たちまち借金のやりくりに追われることになります。続く、明治27年5月に、一葉は荒物屋をたたみ、円山福山町に転居。7月からは日清戦争が始まり、インフレの物価高が一葉を襲います。ますます窮乏していった一葉一家は、様々な人に金銭的援助を求めます。ここから亡くなるまでの2年間に『たけくらべ』も含めた多くの傑作を書き上げます。

明治29年の春先から体の不調を訴えていた一葉ですが、8月に診察を受けた時には肺結核で絶望的な状況となっていました。病状は一事好転するも明治29年11月23日に24年と6ヶ月の短い生涯を終えることになります。

女史が文学社会に於ける地位は現今確かに第一流なりし、女史もとより深遠なる学識あるにあらず、またもとより遠大の抱負あるにあらずといえども、しかもその文章、その観察、その思想は優に第一流作家の群に入るべし

二十五日付『国民新聞』

既に、若手の女流作家として評価されていた一葉の死は新聞各紙で伝えられるところとなります。

身内だけの質素な葬式

森鴎外の弔問も断った

Ougai_Mori_October_22,_1911葬式は11月25日に行われたものの、身内のみで行い、弔問はすべて断ったものでした。

塩田良平著『樋口一葉研究』によると、一葉の旧友の伊東夏子の

「お葬式は淋しうございました。私などは残念でございましたけれども、お返しが出来ないからといふので、家の方が御会葬をみんなお断りしてひました」

という発言から、樋口家が日頃格式ばつてゐただけに、他人に来て貰ふだけの営みができなかつたので、弔問を断ったのではないかという推測がなされています。

弔問を断られた中には、文豪の森鴎外もおり、鴎外は陸軍軍医の制服での馬上参列を申し出るも、やはり断られています。

中流家庭よりも質素だった一葉の葬式

 早朝本郷福山町一葉女史の葬儀に会す。恰も出棺せんとする間際なりき。先導二人、博文館寄贈花一対、燈灯一対、位牌次に女史の妹くに子、次に伊東夏子乃婦人二三名腕車に乗ず四五のものは輿の前後左右に散在粛々として進む。水道橋を渡り三崎町仲猿楽町錦町を経て一つ橋より丸の内に入り霞ヶ関より有楽町を通り銀座街をよぎり築地本願寺の葬儀執行所に着けり。余は道々思へらく「今此葬儀中擔夫たんぷ、一足、車夫等の営業者を除く時は、真実葬儀に列するもの親戚知友を合して僅に十有余名に過ぎず。まことせきりょう々仮令裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず。如何に思ひ直すとも文名四方に揚り奇才江湖こうこに顕如たる一葉女史の葬儀とは信じ得べからず

『副島八十六日誌』

文壇に名が広まって間もないとはいえ、新鋭の女流作家の葬儀とはにわかには信じがたいほど質素なものであったことが書かれています。明治期の葬列は、上流だけでなく、中流下流も含めて、華美になっていった時期で、特に供花や放鳥など、豪勢になっていた一方で、日清戦争での自粛ムードか新聞の死亡通知広告にも「供花放鳥辞退」も多かった時代でもあります。華美な葬列に疑問が投げかけられていた時代でもあり、質素で慎ましい樋口一葉の葬儀は明治の時代の人々にどう写ったのでしょうか。

出典:此経啓助 『明治人のお葬式』

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https://memories-in-time.net/wp-content/uploads/2015/04/higuchi-ichiyou-1024x576.jpghttps://memories-in-time.net/wp-content/uploads/2015/04/higuchi-ichiyou-e1429779873345-150x150.jpgおさる偉人の死生観
五千円札に描かれている女の人って誰だかご存じですか?代表作「たけくらべ」で有名な「樋口一葉」という女流作家です。借金で大変苦労し、24歳の若さにして亡くなったことで知られる樋口一葉ですが、その葬儀はどのようなものだったのでしょうか。 小説「たけくらべ」に描かれる「火葬」と日記から見る明治の「拾骨」文化 四季絶間たえまなき日暮里の火の光りも彼あれが人を焼く烟けぶりかとうら悲しく 引用:『たけくらべ』 樋口一葉 樋口一葉の代表作『たけくらべ』に日暮里の火葬場の様子が書かれている一節です。東京など都市部では火葬が始まっており、この日暮里の火葬場は樋口一葉が「四季絶間なき」と表現するように東京で最も火葬件数の多いもので、現在の大規模な町屋斎場の前身です。 町屋火葬場は江戸五三昧の歴史を伝える。江戸五三昧とは、千駄木・桐ヶ谷・渋谷・炮縁新田・小塚原にあった火葬場をいう。小塚原の火葬場は寛文九年(1669)に下谷・浅草あたりの各寺院から移されたもので、火葬寺・火屋などともよばれた。明治二十年、周辺の市街化により廃止、二年後に町屋に移転した。一方、火葬場の増設許可が下り、同二十年、東京博善社が日暮里火葬場を新設。その後、同火葬場は町屋火葬場の隣地に移ることになり、同三十七年の移転とともに、町屋火葬場と合併した。 出典:あらかわの史跡・文化財荒川区教育委員会 樋口一葉にとっては、この火葬場は父・則義が荼毘に附された特別な場所でもありました。長兄を既に亡くした樋口家は、樋口一葉が家督を継いでいました。父の死によって、ここから有名な貧乏暮らしが始まります。 一葉の死の二年前、二十七年七月一日、従兄の樋口幸作が病死し、やはり日暮里火葬場で荼毘に附された。一葉はそのことを日記にこう書き残している。 「からはその日寺に送りて日ぐらしの烟とたちのぼらせぬ。あさましき終をちかき人にみる我身の宿世もそぞろにかなし」 翌日の二日、一葉は「早朝母君およびおくら(幸作の妹=引用者註)と共に日ぐらしに骨ひろひにゆく」。平出鏗二郎著『東京風俗志』に「火葬にしたるは、翌朝、親戚の婦女往きて遺骨を拾集して帰る、これを骨上げ、または灰よせといふ」とあり、女性による骨上げが当時の慣習だったようだ。 『明治人のお葬式』 樋口一葉の日記や当時の記録から見るに、当時は火葬は一晩かけて行っていたことや、現在も行われている拾骨は火葬の翌日に親類の女性達で行われていたことがわかります。 火葬解禁以降、明治時代に都市部で火葬が広まっていった背景には、人口増加、衛生士層の普及、墓地の狭さなどの問題の他に、次のような時代背景が指摘されています。 人の移動が頻繁になり、故郷を出て東京などの大都市で生活を立てる機会が多くなったのも、明治中期以降の著しい現象であるが、いっぽうでは、死んだら郷里の墓に埋めてもらいたいという念願だけは根強かったために、遺族が遺骨を抱いて帰る必要から、いきおい火葬にせざるをえなかった 浅香勝輔・八木沢壮一共著『火葬場』 都市部への人の移動という社会構造の変化によって、火葬がより合理的な葬送の方式として都市部を中心に徐々に広まっていった事がわかります。 樋口一葉の貧乏生活 「昨日より家のうちに金といふもの一銭もなし」 樋口一葉『よもぎふ日記』 父の死後、樋口家の多額の借金を一葉が返すことになります。小説を書くきっかけも借金が原因でした。 一葉は明治26年7月に、たけくらべの舞台となった下谷・竜泉寺町に移り住み、荒物屋(=家庭用の雑貨類を売る雑貨屋)を開くものの、たちまち借金のやりくりに追われることになります。続く、明治27年5月に、一葉は荒物屋をたたみ、円山福山町に転居。7月からは日清戦争が始まり、インフレの物価高が一葉を襲います。ますます窮乏していった一葉一家は、様々な人に金銭的援助を求めます。ここから亡くなるまでの2年間に『たけくらべ』も含めた多くの傑作を書き上げます。 明治29年の春先から体の不調を訴えていた一葉ですが、8月に診察を受けた時には肺結核で絶望的な状況となっていました。病状は一事好転するも明治29年11月23日に24年と6ヶ月の短い生涯を終えることになります。 女史が文学社会に於ける地位は現今確かに第一流なりし、女史もとより深遠なる学識あるにあらず、またもとより遠大の抱負あるにあらずといえども、しかもその文章、その観察、その思想は優に第一流作家の群に入るべし 二十五日付『国民新聞』 既に、若手の女流作家として評価されていた一葉の死は新聞各紙で伝えられるところとなります。 身内だけの質素な葬式 森鴎外の弔問も断った 葬式は11月25日に行われたものの、身内のみで行い、弔問はすべて断ったものでした。 塩田良平著『樋口一葉研究』によると、一葉の旧友の伊東夏子の 「お葬式は淋しうございました。私などは残念でございましたけれども、お返しが出来ないからといふので、家の方が御会葬をみんなお断りしてひました」 という発言から、樋口家が日頃格式ばつてゐただけに、他人に来て貰ふだけの営みができなかつたので、弔問を断ったのではないかという推測がなされています。 弔問を断られた中には、文豪の森鴎外もおり、鴎外は陸軍軍医の制服での馬上参列を申し出るも、やはり断られています。 中流家庭よりも質素だった一葉の葬式  早朝本郷福山町一葉女史の葬儀に会す。恰も出棺せんとする間際なりき。先導二人、博文館寄贈花一対、燈灯一対、位牌次に女史の妹くに子、次に伊東夏子乃婦人二三名腕車に乗ず四五のものは輿の前後左右に散在粛々として進む。水道橋を渡り三崎町仲猿楽町錦町を経て一つ橋より丸の内に入り霞ヶ関より有楽町を通り銀座街をよぎり築地本願寺の葬儀執行所に着けり。余は道々思へらく「今此葬儀中擔夫たんぷ、一足、車夫等の営業者を除く時は、真実葬儀に列するもの親戚知友を合して僅に十有余名に過ぎず。洵まことに寂せき々寥りょう々仮令裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず。如何に思ひ直すとも文名四方に揚り奇才江湖こうこに顕如たる一葉女史の葬儀とは信じ得べからず 『副島八十六日誌』 文壇に名が広まって間もないとはいえ、新鋭の女流作家の葬儀とはにわかには信じがたいほど質素なものであったことが書かれています。明治期の葬列は、上流だけでなく、中流下流も含めて、華美になっていった時期で、特に供花や放鳥など、豪勢になっていた一方で、日清戦争での自粛ムードか新聞の死亡通知広告にも「供花放鳥辞退」も多かった時代でもあります。華美な葬列に疑問が投げかけられていた時代でもあり、質素で慎ましい樋口一葉の葬儀は明治の時代の人々にどう写ったのでしょうか。 出典:此経啓助 『明治人のお葬式』