遺骨を手元で保管することは問題ないでしょうか?

遺骨はお墓に納めなければいけないというイメージがあるのではないでしょうか?

しかし、手元供養をすると自宅や手元で保管することになります。
これは法律的に問題はないのでしょうか?

法律はどうなっている?

遺骨の取扱いについては、きちんと法律で定められています。

「墓地、埋葬等に関する法律」これがその法律です。

その第四条第一項に次の文言があります。

埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行つてはならない。

これを読むと一見、自宅や手元で供養することは禁じられていると感じるかもしれません。

ここで大切なのは「埋葬」と「埋蔵」の意味です。

「埋葬」・・死体または遺骨を土中に葬ること。

「埋蔵」・・地中に埋め隠すこと。

※デジタル大辞泉より

つまり、「墓地、埋葬等に関する法律」の第四条第一項は、遺骨を土の中に埋めるときは、墓地以外の場所に埋めてはいけませんよ。という意味になります。
具体例としては、遺骨を自宅の庭や勝手な場所に埋めることを禁止しているのです。

一方、手元供養は土の中ではなく、遺骨ペンダントやミニ骨壷に保管をして供養をします。
そして、遺骨を必ず、お墓に埋葬、埋蔵しなければいけないという法律はありません。

よって、遺骨を手元供養で手元や自宅で保管することは法律上問題ありません。

弁護士 大江哲平さん

弁護士 大江哲平さんの見解

自宅で遺骨を保管することが「埋葬、埋蔵」に当たらないのは、日本語の普通の意味から当然と思われます。この解釈を争う余地もないので、判例はなさそうです。
遺骨をいつまでに埋めなければならないという法律は、調べた限りではないようです。したがって、自宅に保管すること自体は法律的に問題ありません。
とはいえ、永遠に保管することはできませんので、いつかは誰かが最終的にどうするかを決めなければなりませんね。

お墓に納めず成仏できるのか?

「分骨すると成仏できないのでは?」「お墓に納骨しないと成仏できないのでは?」
なんていう話しを聞いて心配されている方もいらっしゃると思います。

しかし、これらの話しは根拠のない迷信だと言われています。

実際、分骨に関しては、お釈迦様は約8万の寺院に奉納されています。
そして、西日本では骨上げする際に喉仏を中心に骨の一部だけを骨壷に納めます。
骨壷へ納めなかった遺骨は共同墓地などに納められます。

また、仏教では四十九日で故人の魂はあの世へ旅立つ日とされています。
(人が死んでから次の生を受けるまでの49日間のこと中陰と言います。)
つまり49日を過ぎると故人の魂は成仏しているのです。

一方、浄土真宗では、故人は臨終と同時に浄土に往生すると考えます。
私の知り合いの浄土真宗(本願寺派)の僧侶は次のような考えをお持ちでした。

浄土真宗(本願寺派)の僧侶

浄土真宗(本願寺派)の僧侶の見解

浄土真宗では、開祖 親鸞聖人が明かされた(経典や過去の高僧の書物から読み解いた)「往生即成仏」という考えを教義の主軸に持ってきています。
往生は単純に”死ぬこと”ではないのですが、”阿弥陀仏の本願力によって、信心を頂いたものは死を境にして極楽浄土に生まれ即座に仏になる”という境地です。
ですので、分骨しようが散骨しようが、行方知れずでお骨が見つからないとしても、成仏できないとか、生まれ変われず迷いの世界に取り残されるなどと考える必要はありません。
“考える必要がない”と言うところがキモであり、「そんな事は起こらない」とは少し違いがあります。
結局、死後の世界で阿弥陀仏に救われるか?なんて、分からないのです。
そういう疑念さえも人間の特性として知っている覚りの世界に身を任せよというのが親鸞聖人のお言葉で、親鸞聖人すらも疑念を持つ自分を告白されてます。(嘆異抄から)
故人をしのぶという行為は残されたものにとって、健全な生活を送るとても素晴らしい意識です。
手元供養を相談される方がいらっしゃれば、私は次のようにお伝えしています。
「故人をいつも身近にしのぶ自分を認識する手段として素晴らしいです。裏を返せば、自分は故人との縁によって、身近に仏法に触れる機会を頂いている身なのだと感じて欲しいです」と。

家族の同意を得ることが重要

法律としてはどうなのか? 仏教の教えとしてはどうなのか?
そうした観点から遺骨を手元で保管することの是非を見てきました。

しかし、同様に重要になるのが、家族の同意を得るということです。
家族の中には、分骨して自宅で保管することに抵抗がある方もいらっしゃるかもしれません。

そうしたときは、それに対して耳を貸さないのではなく、故人のためにもしっかりとお話し合いをされた上で、家族全員が納得した上で手元供養することを強くお勧めします。